三十路の図書委員、本棚から覗くモテ世界

30歳、独身、彼女なし。ややイケメン。この「やや」がやっかいだ。昨今、読書男子がモテるというけれど、クラスではドッチボールのうまい男子がモテていた。そんなこと小学生時代からわかってた。

『そして生活はつづく』〜僕は平匡さんにはなれない〜

 4年前、僕は平匡はんになりたかった。矛盾しているのはわかっている。4年前はまだ『逃げ恥』は放送されていない。でも、それが最も正確な表現だ。僕のなかでは少し――いや、かなり違うが、「星野源になりたかった」と言えば、ちょっとは理解してもらいやすいのかもしれない。

 ちょうど星野源の曲を聴き出したのが4年前だった(これは決して、そんな昔から知ってる俺カッコいいアピールではない。けれど、そう聞こえてしまったのなら、本当に申し訳ない。過不足なく、気持ちを説明するのは難しい)。その頃はまだ、とてもいい曲を歌う人くらいにしか思っていなかったが、初主演作の『箱入り息子の恋』を観て、僕が目指すべき人はこの映画の主人公だと思った。

 自分を変える方法には大きく分けて二つある。

 内面を変え、その結果外見が変わる方法。そして、外見を変えることで、内面まで浸透させる方法だ。僕は経験的に後者の度合いが強い。

 まず、ジャージの代わりにかわいいパジャマを買った。次にキレイ目オシャレを辞め、カジュアルにした。女の子とも可能な限り(丁寧に)敬語で話すようにして、ときにはメガネもかけてみた。それは一般的な“星野源”のイメージとは違うかもしれない。でも、『箱入り息子の恋』の主人公から、僕はそのイメージを膨らませた。その理想形が今の平匡はん「だった」のだ。4年前、僕はポップでキュート、それでいてシックな平匡はんになりたかった。

 みくりはんもいた。エプロンをよく付ける女の子だった。

 僕の美醜はさておき、僕とみくりはんの関係はドラマの二人によく似ていた。殆んど完璧に、見ててこわいくらいに。

 何が違ったのだろう、と考える。スペックや、空想と現実の違いはあるのだろう。でも、それはさして問題ではなかった気がする。一つだけあるとすれば、

「逃げてもいい。逃げるのは恥。だけど役に立つ。後ろ向きな選択だっていいじゃないか。恥ずかしい逃げ方だったとしても、生き抜くことの方が大切で、その点においては異論も反論も認めない。でも――」

“大切な人からは逃げちゃダメだ”

 そこが多分、違った。

 みくりはんはもういない。大切な人からは逃げちゃダメだと気づいたところで、もうどうしようもない。「もしも」などないのだ。

 僕は平匡はんになりきれないまま、ドラマの彼に憧れる。そして生活は続く。

 という妄想を、昨日の夜にこしらえました。

 

『そして生活はつづく』星野源/著