三十路の図書委員、本棚から覗くモテ世界

30歳、独身、彼女なし。ややイケメン。この「やや」がやっかいだ。昨今、読書男子がモテるというけれど、クラスではドッチボールのうまい男子がモテていた。そんなこと小学生時代からわかってた。

『もしもし、運命の人ですか。』

 あなたはどういう時に「この人運命の人だ」と感じますか?

 と聞かれたら、穂村弘のエッセイを思い出す。

 それは穂村さんが女性と住宅街を歩いていると、 不意に女性が頭上の樹を見上げ「ここ昔、森だった?」とつぶやく、というものだ。

 穂村さんも、「あんなこと云う人が二人といるものか」と言っていたが、僕がもしこんなこと言われたら一瞬で虜になり、腰がくだけ、更には片膝ついて彼女に忠誠を誓ってしまうことだろう。

 でも、と考える。こんなふうに僕が答えたら、言われたほう絶対気持ち悪い。うん、その位の分別は僕にだってあるのです。

 だから人に聞かれたらこう答えようと妄想しています。

「健康な人」

 うん、これでいい。間違っても「上唇が少し出ている人」とは言えない。それがたとえ本心であっても。でも本当は、「自分がすごく好きなもの――好きな小説や映画、場所などなんでもいいのだけれどーーを相手も好きで共有できるなら、運命を感じる」と、遠くを見ながら目を細めて言いたい。

 しかし、「自分が本当に好きなものを相手も心から好き」という状況の、なんと難しいことか。例えば音楽好きの友達が「俺、SuiseiNoboAz好きな子いたらそれだけで好きになりそう」と言っていたが、残念ながらまだ現れていない。

 僕でいえばそれは「奇妙礼太郎」だったり「原田郁子」だったりするのだけど、うん、残念ながら彼らを好きだという女の子は知らない。そして小説家の「豊島ミホさん」や「辻村深月さん」が断トツ好きな子など、殆んど出会ったこともない。

 だから、ごくたまにそういう子に出会うと、僕は舞い上がってしまう。なんとかお近づきになりたいと、ちっぽけな勇気を振り絞って彼女の視界に入ろうとする。そして意を決して話しかける。

 女の子にとっても、あまり他人に理解されない自分の好きなものを「好きだ」と言ってもらえる機会はないので、必然話はうんと盛り上がる。そして僕は彼女の虜になってしまう。しかしそこに恋愛の大きな落とし穴がある。

 僕にとってその子は運命の人でも、その子にとって僕は運命の人とは限らないのだ。

 そしてそれはこと恋愛において致命的で決定的なことだ。彼女の中で僕は友達に位置づけられ、僕は可能性を捨てきれずに着地点を決めあぐねてしまう。そんな関係が上手く行くわけもなく、僕はまんまと彼女とバイバイしてしまう。

 それでも、たゆまぬ努力をしたもの同士だけが、カップルになるのだ。

――僕は今日、喫茶店でコーヒーを飲みながら周りのカップルを見渡し、心の中で賞賛の拍手を送った。

そしてカップルだらけの店内に佇む自分自身にこうつぶやくのだった。
「早く家に帰りなさい」と。

『もしもし。運命の人ですか』  穂村弘/著